90年代から現在に至るまでダンスフロアから生まれるシーンを発信し続け、レコード文化を継承し、若い才能を守るなどあらゆる立ち場からシーンを支えて来たテクノ活動家/DJ。レーベル〈KEY Vinyl〉の主宰であり、親友Max-Mのレーベル〈M_Rec〉の運営にも関わっていた人物としても知られているが、何よりもローマにてスタートさせたラジオ番組『Virus』が彼を世に知らしめた。
1993年21歳の時にスタートさせた『Virus』は、開始後すぐに様々なミュージック・フリークたちから注目を集め“Virusムーブメント”が到来。1年後には伝説のレーベル〈ACV〉と契約し、彼の最初のEP「Control」、そしてファーストLP「Rage Of Age」をリリースする。シカゴアシッド/ロックから影響を受けたこのLPは、今日でもローマのサウンドとしてイタリア全土で広く知られる作品となっている。
〈ACV〉とのワールドツアーを終えまさに『Virus』人気がピークを迎えた頃、Freddyはシーンから一時退き、ローマの有名レコード店REMIXでSandro Nasonteと共に働き始めた。そこで長い時間を過ごしていたFreddyとSandroは〈Elettronica Romana〉というレーベルを立ち上げ、Donato Dozzy and Giorgio GigliのファーストEP「Chiki Disco」等をリリース。2005年には、若手の新たな取り組みをサポートするベルリンのレーベル〈K1971〉を立ち上げる。2009年ベルリンに移り住み、2年後には〈KEY Vinyl〉を“DJのためのテクノレーベル”として設立。PVSやHéctor Oaksたちの助けもあり、〈KEY Vinyl〉のテクノに対する確固たる価値観が築き上げられた。
ベルリンに移住後レイヴ熱が再燃したFreddyは、まもなく://about blankにて毎月開催されていたゲイイベントHomopatikに参加。そこでのレコードのみを用いた、10時間/14時間、はたまた16時間という壮大なロングセットで大人気となる。Freddy Kのセットは100%ダンスのために作られるのである。他に例えるのであれば、“360°スタイルのテクノ”とも例えられるであろうか? タイミング次第では、Soft Cell、West Bam、Bronski Beatなどもプレイしてしまうからだ。
2013年には初めてBerghainにてプレイし、2年後にはそのBerghainにてクロージングセットを担当するまでに至る。そこでのプレイはまさにエネルギーレベルを月曜日まで上昇させ続けたセットで、“最後の20分が最も重要だ”と言うのだから、最後の最後まで聞き逃すことが出来ないのである。